驚くべきことが判明!
遠山郷には昔から不思議な踊り歌が伝えられています。それは源吾兵衛(げんごべい)と呼ばれます。この歌詞のなかに、
「源はみなもと 藤はふじと読む ヤレなぜに吉の字は よしと読む」
という一節があります。真に意味不明の一節なのですが、実は藤原直哉の父方の祖先は、祖父の代まで天竜川の奥で栗の木を作っていたと伝えられていて、明治になってからは鉄道の枕木として出荷していたそうです。その後、明治時代に東京に出てくるのですが、天竜川の奥のどこで暮らしていたかはわかりませんでした。
しかし父方の親族には昔から不思議な物語が伝えられていました。祖先は、村上左衛門佐藤原蔵吉(むらかみさえもんのじょうふじわらのくらよし)と言うと。源氏の村上水軍の末裔なのだそうです。そして最後の蔵吉は、くらきち、と読むのだという反論があると伝えられているのです。
源吾兵衛の歌詞を聞いたとき、私は腰を抜かさんばかりに驚きました。「きち」は「よし」と読むと歌にあるではありませんか・・・。
さらに遠山郷の熊野神社ほかの神社には、藤原の姓の人が奉納した鏡が何枚も納められているのです。なかには彫刻を施したものがあって、かなり高価なもののようです。しかしこの地区に藤原姓の人はほとんど住んでいません。ということは、どこか遠くから来たお嫁さん、あるいはお姫様が鏡をもってきたということだとおもわれます。
遠山郷から南へ山を越えたところに、南北朝時代に都から藤原左衛門佐(ふじわらさえもんのじょう)が郎党を連れてやってきて住み着いたことがわかっています。今でも京丸藤原氏という一族が住んでおられます。この藤原氏は都から南朝方に逃れた皇子や天皇を連れていました。遠山郷の此田(このた)地区の氏神は、都から逃れて一時住んでいたと伝えられる、南朝第3代の長慶天皇を祭神としています。
そして私の家に伝わる話には三州で活躍した話が出てきます。都から落ち延びてきた人たちは、三州街道沿いに遠山郷に来たようで、途中の浪合というところに、皇子の墓があります。
どうやら私の祖先はそういう都から落ち延びてきた藤原氏のようなのです。そして、歌の秘密を伝えているわけですから、遠山郷に住んでいたのでしょう。
なぜか遠山郷に子供の頃から親近感を持っていて、それは不思議なことだと思っていましたが、何と、どうやら私の祖先はかつてここに住んでいたようなのです!
何かこの件についてご存知の方がおられましたら、教えてください。
よろしくお願いします。
藤原直哉 拝
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コメント
はじめまして、コメント失礼いたします。
といっても…今から10年も前のブログ記事ですので、このコメントも見ていただけるかどうか、些か不安なところなのですが…
私自身は藤原家の件に関して何かを知っているという訳ではないのですが、個人的に記事を読ませていただいている中でとても気になることがありましたのでお声掛けさせていただきました次第です。
実は、我が家の父方の家系も遠山郷から出ておりまして、苗字を「藤島」といいます。「藤」繋がりで、もしかしたら何か藤原様のご家系と接点があったのでは…という安直な考えなのですが、どうしてもそこのところが気になってしまって。
今現在私自身も遠山郷とは全く接点のない遠方に住んでおりますので詳しいことは分からないのですが、聞くところによりますと遠山郷では「遠山」さんという苗字が大半を占めていて、こういった藤のつく苗字は珍しいそうなので尚更に。
突然申し訳ありません。
投稿: 辰巳 | 2019年2月13日 (水) 14時16分