2008年11月
驚くべきことが判明!
遠山郷には昔から不思議な踊り歌が伝えられています。それは源吾兵衛(げんごべい)と呼ばれます。この歌詞のなかに、
「源はみなもと 藤はふじと読む ヤレなぜに吉の字は よしと読む」
という一節があります。真に意味不明の一節なのですが、実は藤原直哉の父方の祖先は、祖父の代まで天竜川の奥で栗の木を作っていたと伝えられていて、明治になってからは鉄道の枕木として出荷していたそうです。その後、明治時代に東京に出てくるのですが、天竜川の奥のどこで暮らしていたかはわかりませんでした。
しかし父方の親族には昔から不思議な物語が伝えられていました。祖先は、村上左衛門佐藤原蔵吉(むらかみさえもんのじょうふじわらのくらよし)と言うと。源氏の村上水軍の末裔なのだそうです。そして最後の蔵吉は、くらきち、と読むのだという反論があると伝えられているのです。
源吾兵衛の歌詞を聞いたとき、私は腰を抜かさんばかりに驚きました。「きち」は「よし」と読むと歌にあるではありませんか・・・。
さらに遠山郷の熊野神社ほかの神社には、藤原の姓の人が奉納した鏡が何枚も納められているのです。なかには彫刻を施したものがあって、かなり高価なもののようです。しかしこの地区に藤原姓の人はほとんど住んでいません。ということは、どこか遠くから来たお嫁さん、あるいはお姫様が鏡をもってきたということだとおもわれます。
遠山郷から南へ山を越えたところに、南北朝時代に都から藤原左衛門佐(ふじわらさえもんのじょう)が郎党を連れてやってきて住み着いたことがわかっています。今でも京丸藤原氏という一族が住んでおられます。この藤原氏は都から南朝方に逃れた皇子や天皇を連れていました。遠山郷の此田(このた)地区の氏神は、都から逃れて一時住んでいたと伝えられる、南朝第3代の長慶天皇を祭神としています。
そして私の家に伝わる話には三州で活躍した話が出てきます。都から落ち延びてきた人たちは、三州街道沿いに遠山郷に来たようで、途中の浪合というところに、皇子の墓があります。
どうやら私の祖先はそういう都から落ち延びてきた藤原氏のようなのです。そして、歌の秘密を伝えているわけですから、遠山郷に住んでいたのでしょう。
なぜか遠山郷に子供の頃から親近感を持っていて、それは不思議なことだと思っていましたが、何と、どうやら私の祖先はかつてここに住んでいたようなのです!
何かこの件についてご存知の方がおられましたら、教えてください。
よろしくお願いします。
藤原直哉 拝
第四回遠山藤原学校2

足踏み脱穀器で脱穀。わらじ作りもしました。
遠山郷のお米屋さんに籾摺り、精米の現場を見せていただきました。
人力とは比べ物にならないスピードで籾摺りがされていきます。
参加者の皆さんには、精米した米を1kgお土産に持って帰っていただきました。

作業後は、かぐらの湯に入り、いろりの宿 島畑で懇親会。
今回は地元の青年会の皆さんに来ていただきました。
都会の若者とは違う明るさと元気さをもった遠山郷の若者の皆さんに、お客様方も驚いていたようです。
・参加されたお客様のHPです。COLUMN 1-Dの889平成20年11月10日 記に遠山藤原学校の様子が書かれています。
http://www.k-taiki.com/
第四回遠山藤原学校
第四回遠山藤原学校~21世紀を生きる人情と自然と技を学ぶ二日間~
はじめに和田城に向かうときには雨が降っていましたが、和田の街並みもみてもらおうと傘をさして、徒歩で歩いていただきました。
和田城では、霜月祭りのビデオ上映。簡単に遠山郷の霜月祭りについて見ます。
この日、命名された「観音大杉」。樹齢500余年にもなるそうです。
昼食は、ゆ~楽でかぐら御膳をいただきました。かぐらの湯には夕方に入ります。
1班と2班にわかれて、わらじ作りと脱穀、籾摺り作業。
1班は釜でご飯を炊くところまでできました。
地元の方に新聞紙なしで火をつけていただきました。
この薪も前回の遠山藤原学校で間伐したものを今回のお客様が薪割りをしたものです。



















































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