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2011年9月27日 (火)

藤原直哉の「日本と世界にひとこと」 2011年9月28日 ボトムアップが始まっている

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コメント

 そろそろ我々も、「自分たちの時代は、後世の人々からいかに見られるだろうか」について真剣に考えるべき時期が来たのではないかと思いますね。「我々は子孫たちからどのように評価されるだろうか」と。

 ごく一般的な人々の認識として、例えば、まあ300年くらい前の時代でもいい。その時代の人々は、果たしてどうだったかと、人から尋ねられた時、大体どのような返事がかえってくるか?を考えてみれば、多分わかりやすいかと思います。

 多分、多くの人々はこう答えるでしょう。

・戦争ばっかりやっていた。
・身分制度が厳しかった。
・奴隷のような人々がどの国でも当たり前に認められていた。
・暴力的だった。
・迷信を素朴に信じていた。
・およそ非文明的だった。
・武士道精神や忠誠心、愛国心が尊ばれた。
・科学がまだ黎明期だったので、霊魂信仰や宗教の力が圧倒的に強かった。

 まあ、まだまだあるでしょうが、大半はこんな程度の認識しかないと思います。特に歴史的知識に乏しい方々(私もそうですが)ではなおさら、ネガティブ(つまり、現代人よりも劣っていた)な認識しかないと思います。

 それに対し、もしその時代の人々がこういう話を聞けば、「我々を野蛮人見たく言うな!」と怒られるかもしれません(笑)。特に当時でも文化レベルの高い国や大国に住んでいた人々は、

「確かにうちの国周りには野蛮な奴らが多いけど、でもうちはかなり文明的で進んでいるよ」

と、懸命に反論するかもしれない。
 
 こういうことです。つまり、その当時でも比較的文化レベルの高い国や安定した国家などはありました。でも、後世(つまり我々)の人々から見れば、

「昔の人々はみんな戦争ばっかりやってたよ」
「身分制度が厳しくて権力には逆らえなかったよ」
「今のおれたちよりも倫理的にも知的にも劣っていたよ」
「今の北朝鮮みたいなことばかりやっていた」

くらいの認識しかない。歴史に関する専門的知識がない一般人であれば、猶更でしょう。せいぜい歴史ドラマを見た程度の知識や認識しかないからです。

 要するに、後世の人々から見れば、仮にその当時としては進んでいた国家であっても、あるいは遅れた国家であっても、「ドングリの背競べ」くらいにしか見えないということです。

 ローマ帝国、元、あるいはナポレオンのフランス……でもいいが、その当時進んでいたとされる(あるいは文明的とされる)国家であっても、後世の人々(歴史に関してはせいぜい一般常識程度の知識しか持たない)にとっては、「その時代」という一つのカテゴリーで説明されてしまうということです。

 さて、これを我々に当てはめてみましょう。例えば、22世紀でもいいが、その時代の人々が、我々のことを果たしてどのように語るでしょうか?これは私の予測ですが、多分こんな感じになると思います。

・競争ばかりやっていた。
・とにかく1番でなければ気が済まなかった。
・理屈っぽかった。
・いかにして他者に勝利するかということに関しては精力的に知恵を使い、権謀術数に長けていた。
・とにかく大きなものや大きくすることはいいことだという観念に縛られていた。
・労働ばかりしていた。
・お金で何でもできると思っていた。
・科学で何でもできると思っていた。
・自分達は過去の時代のいかなる人類よりも発達していると思っていた(過去の世代を見下していた)。
・後先のことよりも目先の利益を優先する傾向が強かった。
・努力が至上価値とされた。
・唯物論崇拝が強かった。
・ただし急激な発展により、確かに物質量を拡大させ、それまで扱えなかった多くの問題も解決できることが多くなった。

 おそらく、ポジティブな評価よりもネガティブな評価の方が多いかと思います。ただ、それは我々も過去の世代の人々を総括する際に同じことをしているわけですから、人のことは言えないと(笑)。

 さて、ここまで来ると大体分かるかと思いますが、いつの日か我々も、「その時代」というカテゴリーで語られる時代が必ずやってくるということです。その時にどう評価されるのか、そろそろ考えてもいいんじゃないかと。

 我々はしばしば、北朝鮮や中国を「非文明国」だとバカにします。特に北朝鮮などは世界中から滑稽視されている。日本人もよく北朝鮮をバカにしますが、22世紀の人類からしてみれば、どっちもどっちで「ドングリの背競べ」でしかないということです(笑)。

 こういうと、多分日本人の多くは嫌悪感を示すと思います。なんであんなでたらめな国家と我々が一緒になるんだ、と。

「北朝鮮は国際法もろくに守らないし、拉致はするしテロはやるし、自国民も満足に生活できず餓死ばかりさせて、国も満足に運営できないくせにテポドンだの核兵器だの分不相応なものに手を出すし、やることなすことすべて前近代的で、それ比べ日本は経済力もあるし、国際社会での信用も高いし、技術もトップクラスだし、なんであんなのといっしょくたにされなくてはならないんだ」

 多分多くの日本人はそう思うでしょう。

 ですが、22世紀の人類は、多分こう反論するでしょう。

「そういう日本こそ生活ができずにホームレスになる者が後を絶たず、過酷な社会でのストレスから自殺する者が後を絶たず、その上そんな状況を改善することもできないのに、一方ではやれアイドルだの芸能人だのと現実から遊離した生活をして、そして地震国でありながら活断層の上に50基以上も原発作っている。君達は北朝鮮をしばしば馬鹿にするけれども、生活苦で命を落とす者が大勢いる一方でアイドルに夢中になり、方や自分たちが扱いきれなくなるくらい厄介な原発を50基以上も抱えていて、それって北朝鮮と何が違うの?北朝鮮では餓死するものが大勢いる一方で独裁者の権力誇示のためのマスゲームに夢中になり、一方では自分たちの国力を超えた核兵器を持とうとしている。我々の世代からしてみれば、どっちも似たり寄ったりだよ。程度の差がそんなに重要かい?いずれにしても、我々からしてみればドングリの背競べみたいなものだよ」

 多分、22世紀の人々が我々の時代を総括するとすれば、せいぜいこんな感じにしかならないと思います。要するに、「その時代では」のカテゴリーの中に入れられて終わりだと(笑)。こういうことです。

 さて、それがいやだ!というのであれば、21世紀初頭の日本人が、22世紀の人類から「一つの時代として扱われないような」働きを示すことが重要だと考えます。日本なくしては、今のような平和で持続的な社会はありえなかったと、こういう風に歴史に刻まれるような働きをする。まさに、「日本から次世代の在り方を提唱していく」ことこそが、日本と他の国々との差異を与えることとなるわけです。

 いまだに原発や日本核武装論にこだわる方々も多いが、はっきり言ってそんなことをしても「一つの時代」で語られて終わりです。もはやその方向に「22世紀のあり方はない」からです。

 人間が分不相応なものに手を出したがるのは、自分に自信がないからです。自信がないから、確固たる自分がないから、大きなものにすがることでごまかしたがるものなのです。

 いい例がお隣の中国や北朝鮮でしょう。特に北朝鮮などは、国力を考えれば核兵器などとてもではないが手を出せないものです。それでもやれテポドンだノドンだ核兵器だパリよりも大きい凱旋門だ首領様の立派な銅像だとそんなものに手を出したがるのは、そうしないとやっていけないからです。だから、中身のない(しかしやたら大きかったりする)巨大なものに頼らざるを得ないのです。

 中国だって同じです。GDP世界2位だのと言うが、国内情勢を見ればもはや隠し通せないほど悲惨な実態があります。それをごまかすために、国民を犠牲にしてまで軍拡をやっている。まるでかつてのソ連のように。国民や世界をだまし続けなければ、もはや運営できない国です。そしてそのためにより大きな力を求め、誇示しようとする。だが、根本的な部分が欠けているから、高速鉄道事故みたいなことが平気で起こる。無理をして発展しているように見せかけても、どこかに綻びが生じる。

 日本でいまだに原発保持や核武装論を唱えているということはどういうことか。はっきり言ってしまえば、

「彼らと同じレベルまで堕ちる」

ということですよ。

 金融工学の破綻や原発事故から学んだことは、

「人は自分の力量を超えるものを手にしてはならない」

でした。

 自然体でよい。自分の身の程をわきまえて、その中で確固たる自分を見出していけばいいのです。地震国で自分たちでは扱いきれない原発を抱えて私たちは理性的ですとかいう方がいかれている。後世の人々からしてみればドングリの背競べで片づけられて終わりですよ。

 もちろん、完全に非武装化しろとまでは言わない。中国や北朝鮮は軍事的脅威に違いないから、最低限自衛力は保持し続ける必要はある。ただ、それは核武装という形ではない。そんなことをしても、いずれは共倒れとなるだけです。

 我々は、中国などに対しては「我々のやり方で」対抗すればいい。いかにして中国に民主化を促すか、まともな国にしていくか、それを模索するべきです。

 例えば、日本人のさりげない生活風景を中国の観光客に見せつけるだけでもいい。あるいは、ネットで、中国の検閲に引っかからないが、しかし中国人が自由に対して憧れを抱くような、そんなさりげない情報を発信していくことでもいい。

 小さなことから、それでも自分達にできることから始めていけばいいわけです。それが我々の武器でもあり、盾でもある。
 
 分不相応なものを持ちたがるのは、自分に自信がないからです。原発がなければ、核武装しなければやっていけないほど、日本は弱い国なのか。保守派は愛国心を唱えるが、それは本当に愛国心から来るものなのか、少し冷静に考えてみればいい。

 これから、本当の実力と必要なものだけが残ることでしょう。それのないものは、たとえ大国と言えども、呑みこまれていくだけです。

 ドングリの背競べはもうやめましょう。我々は、我々なりの戦い方を模索していけばいい。そして22世紀につながるひな型を作ることで、日本という国を歴史の中の重要な存在にしていけばいいのです。そして、今がちょうどその時期と言えるでしょう。

投稿: +9 | 2011年9月29日 (木) 23時56分

こんにちは

平成24年度経済産業政策の課題と対応、概算要求・税制改正要望について
http://www.meti.go.jp/main/yosangaisan/2012/index.html

を読んでいましたが、原発は今後も継続運転するようですね。安全対策は多少盛り込まれているようですが廃炉の研究とかは見あたりません。

震災対応で色々と予算が要求されていますが、その他の項目は相も変わらずグローバル化とイノベーション。新興市場に対応して企業を応援する。

何があっても変化に対応できないんですね。

財務省内閣というレッテルが貼られているようですが、霞ヶ関に関わっても意味がないでしょう。

第十一帖 (一一)
いづくも土にかへると申してあろうが、東京も元の土に一ときはかえるから、その積りでゐて呉れよ。神の申したこと違はんぞ。東京は元の土に一時はかへるぞ、その積りで用意して呉れよ。
http://hifumi.uresi.org/01.html

国の金とか政策とか東京にある国家機能に誰も関心を持たなくなる。と言うことなのかな??

特別会計が一般会計の3倍弱有るので国家破綻は起きないのでしょうが、一度破綻した方が良さそうですね。

戦後満州国の終わり。が21世紀の始まりでは?

投稿: kazu | 2011年9月30日 (金) 03時10分

こんにちは。
日本に長く住んでいる科学者の友人に教えてもらった記事です。
日本人ということについて、客観的に考えるいい機会になり、自分自身少し新鮮でしたので、こちらにご紹介させていただきたいと思いました。
(ちなみに、これを教えてくれた友人はヒンズー教徒です)

http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51745698.html

さっきの記事の続き。山本七平の日本人論は彼の宗教論とからんでおり、学問的には疑問もあるが、最近の反原発ヒステリーを分析するには適している。

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彼が日本人の特徴として指摘するのは、物神崇拝の傾向である。キリスト教では、神は現実の世界から隔絶した超越的な存在だが、日本では霊魂は物質に「臨在」するとされる。それは生きている人間だけではなく、「御神体」や「三種の神器」のような物体にも宿る。「空気」はこのように物体に臨在する力である。

こうした伝統は現代にも残っており、公害をもたらす「悪い物質」とみなされると、安全基準を無視して徹底的に排除される。ごく少量のダイオキシンを除去するために全国のゴミ焼却炉が1兆円かけて廃棄され、健康被害があるのかどうかもわからないカドミウムを除染するために8000億円も費やされる。その費用対効果は問われない。有害物質は存在の許されないケガレだからである。

彼はあげていないが、放射能はこうした物神崇拝の最たるものだ。プルトニウムもセシウムも毒物ではなく、そこから出る放射線も自然界にあるものだ。問題は大量の放射線を浴びたとき発癌の確率が上がるだけで、福島原発事故で出た程度の放射線では健康に影響はない。

ところが「放射能から子どもを守りたい」と称して、放射能という有害物質があると思い込む母親が「子供の放射能基準をきびしくしろ」という運動を繰り広げている。国の決めている「生涯で100mSv」という暫定基準は、余命の長い子供ほど年間被曝限度は下がるのだから、子供はおのずから強く保護されるのだ。あと70年生きる子供なら、年間限度は1.4mSvで、これは日本全国の自然放射線量の平均だ。「母親の願い」で科学的な安全基準を変えようというのは、呪術的な思考である。

こういうとき「子供」とか「母親」というアイコンが使われるのも、反公害運動の常套手段だ。たしかに子供は細胞分裂が盛んだが、それを修復する機能も強い。だから癌は子供ではほとんど起こらないのだ。こうした感情的な議論は問題を混乱させるだけで、客観的な安全を確保する役には立たない。

山本は、こうした傾向を日本特有の「アニミズム」だとしているが、これはおかしい。物体に付随する「空気」が感情を呼び起こす現象は「スーパーセンス」と呼ばれ、世界各地で迷信の生まれる共通のメカニズムである。受動喫煙よりはるかに小さなリスクに大騒ぎして何十兆円もの除染を求める反原発運動は、科学の名を借りた迷信である。

このような「空気」が生まれるのは日本だけではないが、日本では「空気の支配」によって政府もマスコミも踊らされるのは、山本によれば長く平和が続いたため「合理的な意思決定が余り求められない」からだという。
中東や西欧のような、滅ぼしたり滅ぼされたりが当然の国々、その決断が、常に自らと自らの集団の存在をかけたものとならざるを得ない国々およびそこに住む人々は、「空気の支配」を当然のことのように受け入れていれば、とうてい存立できなかったであろう。(『「空気」の研究』p.79)
キリスト教が偶像崇拝を禁じ、唯一神の支配を絶対化するのは、こうした呪術的な信仰による対立・抗争を防ぐためである。ここでは神以外のすべての価値は相対的なので、現世の問題は論理で解決しなければならない。日本で非論理的な「空気」や迷信が根強く残っているのは、「極東の海に隔てられた別荘」で長い平和を享受してきたせいだとすれば、その呪縛を解くのは容易なことではない。

投稿: magenta45 | 2011年10月 2日 (日) 12時45分

こんにちは

福島の原発は不思議な原子炉ですね。

今では運転中を100とすると、0.36、つまり300分の1になっています。
http://takedanet.com/2011/09/post_d3c4.html

と言うことで計算してみると4000Kw程度の熱が発生していることになり注水量が3.6トン毎時(3600リットル)と言うことで安定したと報道されています。

1時間は3600秒ですから家庭用のホットプレート(約1Kw)3600枚に1秒で1リットルの水を入れ続けている状態なのでしょうか?

メルトスルーしているので圧力容器に残っている燃料だけが冷やされているのか?解け落ちた燃料も同様に発熱し核分裂生成物を生産している。

格納容器の底に燃料が貯まっているなら水は掛かると思いますが焼き肉が出来るような状態で1リットルの水の温度が2度ほどしか熱くならない??

1号機のデータと放水量を元に計算してみたのですが何とも訳が解らない話です。

広島原爆168発?の放射性物質が放出された爆心地の様な所で紙(不織布)の防護服とマスクで復旧作業。3キロ圏内の住民が一時帰宅して0.25マイクロ・シーベルトの被曝?

2桁ほど少ないような数字ばかり出てくるのは、単なる計算間違えなのでしょうか?

60年代の核実験中は10トンのプルトニュームが放出されたそうで年間5ミリシーベルトの被曝があったそうですが露地物野菜も魚も普通に食べて居ましたが何か特定の病気が増えたと言うこともなく今日を迎えています。

ウィキペディアで「ホルミシス効果」を検索すると年間5ミリシーベルトで糖尿病が改善されるとか出てきます。

除線利権の為の放射能ショックドクトリン?

9.11よりも早く真実が表に出てきそうな気もしますが、原発継続の予算申請は何を考えて出てきた物なのか?不思議な話ばかり。

投稿: kazu | 2011年10月 4日 (火) 00時16分

個人的には、福島原発のことと北朝鮮による日本人拉致のことが、同じぐらい「何か変」に見えています。

地球では、政府が国民を子ども扱いするパターンや、文字通りの「親」が「子ども」に嘘をついたり子どもが親に嘘をついたりが散見されます。

理解不能ですが、一般に、大人でも子どでも「理解・協力が得られそうにないと思うと、ただ実行する」場合はあるかも知れません。

もしかして、核反応関係でどうしてもやってみたい研究があるが、理解・協力が得られそうにない、許可もおりない予算も取れそうにない、と思った人が福島原発を利用している可能性はないでしょうか。

現在の地球のようなところでは、本当に十分な合意に達するのはむずかしい気がしますが、科学と情緒の折り合いがついた先に生まれた調和を目の当たりにできるのは、やっぱり日本かなと思ったりします。

投稿: magenta45 | 2011年10月 4日 (火) 05時34分

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