藤原直哉の「21世紀はみんながリーダー」 2009年9月15日 教養が役に立つ時代
教養が役に立つ時代
| 固定リンク
« 藤原直哉の「日本と世界にひとこと」 2009年9月15日 民主党政権スタートします | トップページ | 土橋重隆の「平成養生訓-21世紀は治療から予防へ-」 2009年9月15日 研修医時代 »
« 藤原直哉の「日本と世界にひとこと」 2009年9月15日 民主党政権スタートします | トップページ | 土橋重隆の「平成養生訓-21世紀は治療から予防へ-」 2009年9月15日 研修医時代 »
教養が役に立つ時代
| 固定リンク
« 藤原直哉の「日本と世界にひとこと」 2009年9月15日 民主党政権スタートします | トップページ | 土橋重隆の「平成養生訓-21世紀は治療から予防へ-」 2009年9月15日 研修医時代 »
コメント
科学者たちにも教養が必要のようですよ(笑)。
今度は「脳と意識」について、彼ら科学者たちがいかにいい加減なことを言っているのか、ちょっと調べてみようという試みです。
現在の主流科学では、「脳が意識を生み出している」ということになっておりますが、結論から言って、これはただの錯覚であるというほかありません。
例えば、脳の中をあらゆる機器を使って観測してみればわかるとおり、脳内で起こっている「唯物的な」現象は、0と1のデータのやり取り、すなわちデジタルな電気信号と神経伝達物質による若干の化学的変化くらいです。つまり、脳の中に「生命の流れ」とかあるいは「生命エネルギー」といったものは存在しないということです。
このため、多くの科学者たちは「生気論」を退けます。要するに、電気信号と若干の化学反応以外には観測できないからです。
このことから、もし科学者たちが言う通り、「脳が意識を生み出している」とするならば、それは「0と1の電気信号の信号の組み合わせ」が意識を生み出しているということになります。要はONとOFFのデジタルなやり取りだけが、意識を生み出していると。
これがいかに無理があるか、少し考えてみればわかるような気がいたします。以前、私は人工知能に意識ができるかという話題で、「人間の脳を機械で全く同じにシミュレートすることは将来的な可能である。しかし、そうして作られた機械の中にとある人間の脳内における数値データだけをコピーして移植しても、それでは人工知能はまともに機能しない」ということを申しあげましたが、これが錯覚であるのはもはや明らかでしょう。
さきほども言いましたが、脳内で起こっているのは単なるデジタルな電気信号のやり取りと化学反応ぐらいなものです。生命エネルギーや生命の流れみたいな独自の現象は、まったく観測できません。
だから、繰り返して書きますが、「脳が意識を生み出している」とするならば、「意識とは電気信号の組み合わせでできているもの」ということになります。これがいかに無理があるかは、実際に自分自身に目を向けて、冷静に自分を観測してみればわかることです。
何かに感動している時や悲しい時、うれしい時、確かにこれらを数値化することはできますが、本当にこれらが電気信号の、しかもデジタルなON、OFFのやり取りだけで生み出せると思いますか?あるいは脳内で消費されるカロリーを計算すれば、確かに脳が使用するエネルギー量を測定できますが、そのわずかな熱量だけで、たとえば感動したり、あるいは他人とコミュニケーションをとったり、芸術作品を生み出したりとか、できると思っているのですか?
もし仮にそれらを生み出せると仮定しても、だったらすでに何らかの知的創造性を持つものを作れてもおかしくはありません。電気信号のON、OFF、つまりは入出力だけで意識が生まれるとするならば、現在どころか、20年以上前の「第五世代コンピュータ計画」の時点で、完全ではなくとも、すでに何らかの知的創造性を持っている機械ができていてもおかしくはなかったはずです。
実際、この点に関して、科学者達に詰問すれば「いくらなんでも電気信号のやり取りだけではこういったものは生まれない」と、しぶしぶではありますが、認める科学者もおります。自分達でも「脳中心論」が無理があるというのは、薄々気が付いているはずなんです。
要するに、脳中心論というのは錯覚に基づいて論理構成が行われているわけなんですよ。唯物論者たちが言うように、脳内には一切生命エネルギーなどは観測できません。みな既存の機器で観測できる現象しか起こっていないのです。つまりは本当に「唯物的な」現象しか存在しない。
そしてその脳の中で行われているものが、たとえば脳独自のもので、しかし将来的には「唯物科学でも十分説明がつく」ものであり、それが生命の誕生とともに観測され、そして死とともに消え失せるというのならば、それは脳中心論が正しいといえるかもしれないが、残念ながら、いくら観測しても脳内ではデジタルな電気信号と、若干の伝達物質による化学反応くらいしかありません。
だから、意識の正体は「電気信号と化学反応の産物である」と言う結論しか、脳中心論には出せないわけです。そして、一番の問題なのが、はたしてこれほど複雑で、それこそ「フレーム問題」なるものが持ち上がるほど多岐にわたる意識活動が、本当に「電気信号と化学反応」だけで生み出せると信じているのですか?
科学者たちは、脳中心論の正当性を示すため、よく臨死体験などを批判します。あるいは、脳の特定の部分を損傷した場合、例えば言語野を損傷した場合、言語を使った活動が困難になる事例を上げて、「言語活動は言語野において『造られている』」と主張します。同じように、視覚野が損傷すれば、視覚に困難が生じることから、「視覚は視覚野によって『作られている』」、まだほかにもありますが、この辺でやめておきます。
しかし、これでわかるのは、「ある知的活動と脳のある部分とが『対応』している」ということは言えますが、『作っている』ということは、いくら事例を積み重ねても立証はできません。これは臨死体験にも言えることでしょう。こちらはいずれ機会があったら詳しく考察していきたいと思います。
結局、脳中心論も錯覚にすぎないということです。彼らは人間の脳をよくCPUに例えますが、このたとえにしても無理があります。
簡単に言ってしまえば、パソコン内で情報を処理し、出力することまでは、パソコンの能力でできることだが、その出力されたものを認識するのは、常にパソコンの外部にいる「人間」だということです。
人間の脳は、発火率が2割程度とはいえ、「情報処理システム」にほかなりません。したがって、CPUと脳を対応させて考えること自体は、問題ではない。しかし、この視点には「外部視点」、つまり、パソコンの処理し、出力したものを「認識する存在」が欠けております。パソコンそれ自体が、パソコン内部で処理したものを「認識している」わけではないのです。
つまり、脳とCPUを対応させて考えるにしても、この「認識している外部の存在」を全く度外視しているわけです。
それでも科学者たちはいいます。
「いや、脳内のどこかに、認識をつかさどる部分があるはずだ、それは今はまだ未解明だが、いずれ脳内のどこかで発見されるはずだ」
しかし、これにも無理があります。仮にこの主張通り、「脳内に認識をつかさどる」部分があったと科学者たちが主張しても、その「認識しているであろう部分」とやらも、「デジタルな数値データのやり取り」と「若干の化学反応」しか行っておりません。
で、改めて考えてみると、たとえば物事の美醜などを認識するにしても、本当に「ON、OFFの電気信号的なやり取りと化学反応だけで、認識することができると思いますか?」という疑問が生じるわけです。
たとえば、感情や心の働きの中でも「入出力で説明できるもの(つまり、受動的な要素)」であれば、たぶん機械でも再現できることでしょう。しかし、それを認識するのは常に「外部の人間」であり、「機械内部ではない」ということになります。
科学者たちは「意識活動」と「脳の演算作業」の区別ができず、錯覚してしているからこのような誤謬が生じるのでしょう。
「認識」というのは、受動的なものではなく、能動的なものであり、ON、OFFや入出力の概念を超えております。要するに、入出力だけで再現できるものではなく、またそれは常に「情報処理システムの外にしか存在しない」のです。
だから、脳は確かに毎秒50ビット(1100万ビット中)の速度で神経から伝わってきた電気信号を「処理」します。そしてある程度は「出力」も行っているでしょう。しかし、それらを「認識」するのは、脳ではありません。情報処理システムは、あくまでも「情報処理を行う」のであって、「認識はしない」のです。
そしてこの能動的な性格をもった「認識」というものですが、どうも脳の構造を見ると、これはある確率的なものを必然的なものに置き換える力があるまったく別の概念ではないかと思います。
人間の脳の神経細胞の発火率は普段は2割程度ですが、実はたとえば「特定の何かを行おう」「特定の何かについて考えよう」とした時、つまり自由意思が働いた瞬間に、その発火率すら無視して脳の特定の部位で「演算処理」を行うのです。まさに自由意思とは「確率を超えたもの」あるいは「偶然ではなくて必然性を備えたもの」であると考えてもいいでしょう。
これからわかることは、「脳にしろAIにしろ、『確率でしか表現できない偶然的な要素でさえも、必然的なものに変えてしまう』別の見方をすれば、『確率すら無視して、影響を与えるもの』、これが欠けている限りは知的創造性を生み出すことはできない」ということではないでしょうか。
我々がある確率でしか表現できない事象を、ある結論に収束させるためには、そこに必ず「不自然さ」が伴うはずです。
サイコロで1回振ってたとえば1の目が出る確率は1/6です。まあ、これはすぐに出るだろうと考えてもいいですが、たとえば2回振って2回とも1の目になる確率は?1/6の2乗で1/36……まあ、これぐらいならあり得るかなぁ、と思う人も多いでしょうが、もしこれが3回振って同じ目が出る確率を計算した場合は?4回は?極端な話10回振って10回とも同じ確率は?
1/6の10乗となるわけですが、さすがにこれは誰も起こらないだろうと考えるし、実際にそういうことが起こったと、話すやつがいても、「たとえばサイコロに細工がしてあるんじゃないか」「あるいはサイコロ自体に細工がなくても机とかに何かあるんじゃないか」とか疑うと思います。
1/6の10乗の現象というのはそれぐらいあり得ない話です。もし同じ目を10かい振って10回とも出す場合、単純に確率に頼るのであれば、それこそ天文学的な確率となるわけで、それでも10回とも同じ目を出したいならば、そこに「不正を働いた不自然さ」が必ずあるはずです。要するに、インチキでもしなければとても起こり得ないようなことだというわけです。
しかし、「認識」をつかさどる「何か」については、そもそも「確率的にしか表現できない脳という情報処理システム」を「まったく不自然さもなく、それこそ自然にある一つの結論まで導く」わけです。こんなものは、私が知る限り一つもありません。
我々は確率を「計算」することはできても、「制御」する術は知らないし、仮に「制御した」としてもそこには「違和感」や「不自然さ」が漂います。上のサイコロの事例などがそうでしょう。
そして、この地球上に存在する情報処理システムで、そのような機能を持ったものはありません。脳ですら、その「確率を超える、あるいは偶然的なものを必然へと変換させる」ものの「影響」を受けてはいても、それ自体を「作りだしている」わけではないのです。
これで、脳中心論がいかに錯覚に基づいたものであるのか、お分かりいただけるかと思います。そして、彼らはこの錯覚を正当化するために、様々な理論やら仮説を思いつきます。大体以下のようなものです。
1.脳の神経細胞の発火率は2割程度だが、この2割程度の発火率こそが意識の正体である。つまり「あいまいさ」こそが意識を生み出している。
2.今はまだ未解明の量子重力が関係している。
3.脳は複雑系である。1本の神経からは確かに意識は生まれないが、シナプス1000兆個もあるのだから、そこから何か想像を絶する「創発現象」が生まれ、結果意識となる。
1.に関してははっきり言って論外です。2割というのを聞くと、なんとなく落ち着かない意識状態の子供(よく授業中に騒ぐとか、集中できないとか)を持ち出して、「ああ、なんとなくおれたちの脳の電気信号も
伝わったり伝わらなかったりしているんだろうなぁ」と(笑)。仕事に集中できず、すぐに視点がふらふらするのも、おそらく電気信号がきちんと伝わっている時と居ないときがあるのだろうと。
これは全く話になりません。そもそも情報処理システムが、100%の確率で電気信号が伝わらなかった場合、それはもはや情報処理システムとしての役割すら果たさないのは科学者自身がわかっているはずです。0.1%でも下がれば、それは役立たずの粗悪品にほかなりません。
2.については、単に電気信号が量子重力に置き換わったぐらいで、本質的には何も変わっておりませんので、上の論法で十分論破できると思います。要するに、「完成していない未知の理論に何とか説明してもらおう」というただそれだけのことです。置き換えたところで、今度は質問をこう変えてみればいいかと思います。
「あなたたちは意識というものを量子重力で生み出せると思っているのですか?」
3.に関しては、2.の発想に近いのですが、「複雑系」という便利な用語に飛びついただけです。要するに、1本1本のシナプスを調べても無理だが、それが1000兆個もある以上、そこから想像を超えた「創発現象」が起こり、脳内に電気信号の塊が生まれ、これがなんとなぁく、「私」という意識を作り出しているんじゃないかといいたいだけです。複雑系でさえ、まだまだわからないことがあるのに、それを単純に脳に当てはめて説明した気になっているのでしょう。
逆に言えば、もうこれくらいでしか説明できなくなってきたということですな。そういう人たちにこう尋ねてみるといいと思います。
「あなたたちは、本当に電気信号と化学反応産物が
意識を形作ると思っているのですか?」と。
まあ、ほかにもあるのですが、今日はこの辺にしておきます。次は……臨死体験批判批判(笑)と不老不死批判、あとは技術信仰批判でも予定しおきますよ。6か月の臨時職員にもなれたし(笑)。当分は何とか食いつないで行けそうだ。
投稿: +9 | 2009年9月15日 (火) 19時10分
+9さん、こんにちは。いつもありがとうございます。とりあえずお仕事見つかって何よりです。凄まじい時代ですからね。おめでとうございます。今日はすごい勉強をさせていただきました。ありがとうございました。科学者も最近はどんどん珍妙に見えてきますね。意識も神様からの霊線であるなどとは死んでも言えないのでしょうね(大笑)。ま、商売ですから好きなだけやっていただいて。でも費用はだんだん国民が負担しなくなりますよね、今の様子では。「途中の鼻高」ぐらい始末におえないものはないと言った預言者がいましたが、何かその言葉を思い出しました。またいろいろと教えてください。ありがとうございます。
藤原直哉 拝
投稿: 藤原直哉 | 2009年9月15日 (火) 20時18分
○いつも、興味深くお話を拝聴させて頂いております。
「自分の魂につながっていない。その時の気持ちや情景が今日を生きる自分のエネルギーや元気につながっていないと教養でない。そのような時は単に知識を持っているだけ。」というくだりの部分は、言い当てているような気がします。
テレビには、世間で言う高い教養の事務次官が出てきますが、どの事務次官も、覇気がないというか、魂の奥底から何かを訴えかけるものがないというか、いつも何か物足りなさを感じていましたが、きっとそういうことかもしれません。
ちなみに、某道庁の上層部は、問題をとばす、現状を認識できていない(そのかわり、保身や自己の出世に関わることだけはよく心得ています)人たちの集まりです。私はいつも、その人たちに何か違和感を覚えていました。何か地域全体を発展させようとか、住民に貢献しようとか言う発想がなく、対住民に対して、なんとなく横柄で、小馬鹿にしている様子です。時として、住民を冒涜するようなことを平気でします。ある住民をその地区の町内会全体で嫌がらせをしようとするような話があり、元をつきとめていくと某道庁職員の幹部が大本のようでした。業界をうまく使って、町内会長をまるめこんで、そのように画策をしているようですが、馬鹿馬鹿しくてお話になりません。ある所でその住民に正論を言われ、面目をつぶされた腹いせのようで、全くレベルが低すぎます。一介の公僕が、私怨のためにしかも奉仕すべき住民や業界をいいように利用するなんてもってのほかとしか言いようがありません。このような方が、行政を担っているのかと思うと残念で仕方ありません。
その幹部職員は、その人に直接嫌がらせはせずに、指令を出して見物しているそうです(自分でやると、その人に正論で指摘されるので、別な人にやらせるようです。自分は捕まりたくないということでしょう)。最初は数人でやっていたようですが、全く効果がなかったので、とうとう町内会全体にまで広げたようで、その幹部職員は自分の権力をその人にみせびらかせたいがためにやっているようです。ちなみに、警察や町内会長に話しても何の解決にもなりませんでした。
○お釈迦様は、慚愧の念のない人はどのような悪もなし得ると言いました。慚は、内(自分もしくは良心)に対する恥。愧は、外(世間)に対する恥を意味するそうです。この二つの恥を感じなければ、どのような悪もなし得ると言いましたが、先の幹部職員はまさしくその通りの人でしょう。
○政界は、慚愧の念のない人が、かなり去りました。残るは、財界と官界ですが、いずれ大掃除がされるのではないかと思っております。
川上が綺麗になれば、川下も綺麗になり、日本全体が、恥を大切にする文化に戻るのではないかと思います。
投稿: tuiteru | 2009年9月15日 (火) 22時43分
tuiteruさん、こんにちは。いつもありがとうございます。依然として陰険で横柄な役人がいますね。でもこれからそういう人間の居場所はどんどん小さくなっていくのでしょうね。これから大掃除がどんどん進行すると思います。そしておっしゃるようにもう一度きれいな国になると思います。どうぞ引き続きご活躍ください。ありがとうございます。
藤原直哉 拝
投稿: 藤原直哉 | 2009年9月16日 (水) 08時22分
藤原先生、はじめまして。
毎回の放送を楽しく、また「教養」が深まるのを実感しながら拝聴しております。
私自身、20年余りマスコミ(地上波テレビ)で仕事をしておりました。藤原先生よりも少し下の世代です。バブルの余波を感じながら20代中盤までを過ごし、1993年、私自身が20代後半の頃よりアジア、米国で日本向けの取材をしながら海外勤務をしておりました。1999年に帰国し、何か日本の空気があまり良くない方向へ向かっていることを実感しながら、10年が経過しました。
その間に、地上波テレビも内部では激変していたことを思い出します。私はドキュメンタリーを制作しておりましたので、今のテレビ業界のように商業主義まっしぐらの世界とは間逆の立場でした。しかし、90年代半ば位までは、そのような立場でも堂々と仕事が出来ました。しかし90年後半になり、地上波だけでなく、マルチメディアと騒がれる頃からテレビの内部は完全に変化したのではないでしょうか。当然ながらドキュメンタリーは視聴率とはほぼ無縁ですので、放送枠が極限まで削られていき、私のような制作者も隅に追いやられていきました。自分自身もニュース報道の道を開拓しましたが、そのニュースでさえも、次第に商業主義全開へとひた走っていきました。もうテレビ制作での立場に限界を感じ、現在ではインターネットの世界へと身を移して活動しております。藤原先生の放送のようなコンテンツがインターネットの醍醐味の一つなのだと思います。今後も素晴らしいお話しを楽しみにしております。
投稿: しまぽん | 2009年9月16日 (水) 20時45分
しまぽんさん、こんにちは。いつもありがとうございます。そうですかマスコミご出身ですか。いろいろありましたね、この世界は。やはり昔からの遺伝子というところが新しい時代への対応を妨げている部分がありますね。マスコミというのは20世紀のメディアの姿なのでしょうね。編成とか編集というものこそメディアがもつ権力であり、20世紀にそれが政治やビジネスの権力装置として機能した部分だと思います。でも21世紀はまさにマルチメディアで、編成や編集がいらなくなるのですね。逆に言えば権力の都合のよいようにコンテンツを選ぶということができなくなり、情報の受け手が一人一人自分で情報を選択するという格好になるのでしょう。そうするといわゆるジャングルのルールが広がって、人は自分で決めた範囲の情報しか通常は取らなくなるということですね。そうするとかなり情報の量や質に違いが生まれてきて、それが21世紀の人々の多様性にもつながっていくのでしょう。時代は変わりますね。
どうぞ引き続きご活躍ください。ありがとうございます。
藤原直哉 拝
投稿: 藤原直哉 | 2009年9月16日 (水) 23時32分
こんにちは藤原様、経団連の真似ですか?病人の真似はしませんよ(笑
日本経団連の使命は、「民主導・自律型の経済社会」の実現に向け、企業の付加価値創造力の向上、その活動を支える個人や地域の活力の向上を促し、わが国経済ならびに世界経済の発展を促進することにあります。
http://www.keidanren.or.jp/japanese/profile/pro001.html
新内閣には、一刻も早く経済を自律的な回復軌道に乗せるとともに、産業競争力維持・強化を軸とする成長戦略、並びに諸重要課題に取り組む包括的ビジョンを示すことにより国民の閉塞感を払拭して頂きたい。
http://www.keidanren.or.jp/japanese/policy/2009/074.html
精神分裂症の特徴である両価性が現れていますね。土橋先生に確認しようとも思ったのですが専門外ですので投稿できずに、こちらに投稿しています(失礼します)
零細企業が主に加盟する商工会の全国組織のコメントもネットに出ていました。(簡単に言えば街の八百屋とか小さな工場とかが加盟しています)
新内閣には、景気建て直し、地方の活性化、社会保障の充実などを通じて、国民生活の安定を一刻も早く実現することを期待している。
http://www.shokokai.or.jp/top/Html/seisaku/seisaku-43.htm
マスコミでは絶対に取り上げないでしょうね。ネットの時代は情報を取りに行けば何でも出て来ます。自分で動き自分で考え仲間と相談し行動する。そして多様性を認める変化に強い世の中が当面求められるのでしょうね。
経団連に関してはリーマンショック以前から笑気ガスを吸っていたとも考えられます。詳しくは土橋先生か麻酔科の医者に聞けば解ります。
色々知ってしまうと正しい事を考えるようになります。
投稿: kazu | 2009年9月17日 (木) 00時31分
kazuさん、こんにちは。いつもありがとうございます。ははは、もう病気なんですね(大笑)。そうですよね。経団連のトップ連中なんて威張ってますからね。文字通りの裸の王様。何か病気だからあれだけ威張って人をいじめ、同時にその正反対の奇麗事を言ってすましていられるのでしょうね。普通の人間ならあそこまではできませんね。それがこの事態でしょう。実際に見たわけではないのでこれは想像ですが、こういうタイプの人が今のような状況になると構わずわめき散らして周囲の人に八つ当たりしたり、あるいはちょっとそれが収まって根拠なき楽観論にふけってみたり。もうわけがわからない状態になっていると思います。病気なのでしょうね。とにかく明るく陽気に根拠なき大言壮語をして金集めする人は躁病の人だという話も聞いたことがありますし、今までの経済界も目立つところは実は全部病人がやっていたりして(大笑)。とにかく汚濁一掃、やりなおしですね。どうぞ引き続きご活躍ください。
いつもありがとうございます。
藤原直哉 拝
投稿: 藤原直哉 | 2009年9月17日 (木) 07時00分
先生、仰る通り、古典を勉強しないとだめですね。
今は、論語や孫子はネットで容易に検索できます。
論語で”小人”を検索すると、面白い文章が沢山出てきます。
古今東西、官僚(軍人、文人、を問わず)や、大企業の管理職は、”小人”ばっかりですね。
これは、近代社会のシステムに、何か大きな欠陥があるのでしょうね?
投稿: ^m^ | 2009年9月17日 (木) 19時45分
はじめて投稿します。僕は政治の仕組み 経済には興味があったんですが、複雑すぎて諦めてました。経済や政治に藤原先生が分かりやすく例え、天の使命、リーダーシップなど総合的な考え方が僕にぴったしはまりました。先生のインターネット放送が無料で試聴できるなんて、素晴らしい時代になりました。これからの時代は人間関係 情報 コミュニティ スキルアップ他など受け身でなく、自分自身から行動し変化するのが、絶対的な条件になりますね。20世紀は自己中(自己愛的なナルシスト)21世紀は三者関係(他コミュニティを受け入れる人格)がないと、時代に淘汰されますね。これから先生の考え方を参考に生活していこうと思います。※インターネット放送をまとめておとして、長い通勤時間 聞いてます。
投稿: たかし 35才 北九州 | 2009年9月17日 (木) 20時16分
^m^さん、こんにちは。いつもありがとうございます。本当にそうですね。結局20世紀は文明が発達したとはいえ、支配・被支配が濃厚に残っていた時代なのですね。国でも会社でも家庭でも、とにかく支配・被支配の構造が色濃かったですからね。この構造を維持するためには小人を育てないとね。大人を教育で育てたら構造が根底から崩壊してしまいますからね。小人ばかりになったところで今までの構造が崩壊。さて、みんな自分たちの力で大人になって生きていかなければならない時代ですね。すごいですね。どうぞ引き続きご活躍ください。
たかし 35才 北九州さん、こんにちは。いつもありがとうございます。政治や経済も本来はそんなにややこしいものではないはずです。これからはすべて原点に戻って考える時代なのでしょうね。おっしゃるとおり、自分から変わっていくということ、みんなとやっていける人でないと生きるのも難しいということ、いずれも非常に重要なポイントだと思います。結局は一人一人のありかたの問題なのですね。どうぞ引き続きご活躍ください。
ありがとうございます。
藤原直哉 拝
投稿: 藤原直哉 | 2009年9月17日 (木) 21時51分
郵政民営化にはあれだけテレビでは騒いでいたのに、見直し案がでた本日は、なぜかテレビのニュースにはほとんどでません。不思議ですね。
↓郵政民営化見直しのニュース
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090917-00000663-yom-bus_all
脱官僚、官僚依存政治脱却、政治主導というキーワードがやたらと、ニュースには出てきます。ちょっと極端ですよね。
官僚主導は、再配分の是非は別としても利益は日本に還元されますが、米国に流れた利益は日本に残りません。
私は諸悪の根源は米国にあると思っているので、脱米国をキーワードにした政治が望ましいと思っております。
国益のために働く官僚も多くいるはずなので、国家戦略室で政官が手を組んで政策を練ってもいいのではないでしょうか。
日本最大のシンクタンクは霞ヶ関の官僚たちだと思いますが。
投稿: 南十字星 | 2009年9月18日 (金) 12時15分
南十字星さん、こんにちは。いつもありがとうございます。おっしゃることはよくわかります。それが本来のあるべき姿だと思いますが、現在の役所の実態はあるべき姿とはだいぶ違うようです。
この20年間、役所は日本のお荷物、悪の巣窟、税金泥棒、お前らはいないほうが日本のためだと言われ続けてきました。ですから根本的にひねくれているのがたくさんいます。そして実際に何をやってもうまくいったということはほとんどなくて、結局日本は衰退しました。ですから成功体験もなく自信喪失している役人が多数います。それに管理・監視が強烈に厳しくなり、民間人とコミュニケーションを取ることそのものが犯罪のようになっていきましたから、連中はとにかく役所の建物のなかに立てこもって静かに座っているのが仕事だと思うようになっていきました。そして実際にそのためにまったく世の中のこと、現場のことがわからない役人が続出しています。霞ヶ関や永田町には警備の警察がたくさんいますが、あれは外からの襲撃に備えているのではなくて、本当は中にいる政治家や役人が逃げ出さないように見張っているのです(笑)。
さらに橋本内閣における省庁再編、小泉改革で、その趣旨に賛同して自ら積極的に推進した役人は、勢いが止まったあと、古巣の省庁に残った役人に後ろから弾を撃たれて左遷されたり追い出されていきました。ですから今回民主党がいろいろ旗を振っても、よしやろうなんていって飛び出していく役人はいないんじゃないでしょうか。それは古巣に残る役人から弾を撃たれることが怖くて動けないのです。さらにこれから自民党政治の整理・復讐・戦犯追及が始まります。外務委員長が鈴木宗男氏だとか、郵政金融担当大臣が亀井静香氏だとか、厚生労働大臣が長妻氏だとか、あまりにもおもしろすぎます。こういう大臣たちが本格的に仕事を始めたら役所内部は責任のなすりあいで白兵戦になります。とても前向きに何かやろうという話ではなくなります。
というような現実を考えるにつけ、役所はもう終ったと私はみています。政治が固まってから、役所は全部作り直しということになるのでしょう。ではどうするかといえば、やはりシンクタンクを作ることです。そして政府内部に諮問会議やら審議会を作るのではなくて、議員あるいは政党がシンクタンクを持って、そこで研究して議員が理解して、議員の提案という形で議会で議論して決めていけばよいと思っています。ですからやる気のある役人は役所を辞めて、新しいシンクタンクで仕事をしたらよいと思います。シンクタンクをしっかり作れば、本当に仕事のできる人が官民から集まってくると思います。米国も中国もこうやって政治が迫力を持って動き出せばしばらく手も足も出せないと思います。ここは勢いが止まらないうちにどんどん変化を加速させることが大切だと思います。
どうぞ引き続きご活躍ください。ありがとうございます。
藤原直哉 拝
投稿: 藤原直哉 | 2009年9月18日 (金) 21時44分
藤原先生、解説ありがとうございます。
もはや、税金泥棒程度の官僚しか残っていないですね。
国家や国民のために働く能力がない。
政治家の演説用のメモも渡せない。記者会見も出来ない。
天下りが禁止され、天下り先の法人や企業のために利権を誘導することすらできない。
民主党政権に協力も出来なければ、反対も出来ない。
彼らはやることがなく、ただ座っているだけなんですね。
確かに、税金泥棒ですね。
投稿: 南十字星 | 2009年9月19日 (土) 06時51分
藤原先生のラジオニュースや講演をいつも楽しみ聞いています。昨日の講演ご苦労様でした。
米国の会計検査院が米国財政は破綻しているとか、FRBの理事や色々な経済の専門家たちが米国は破綻していると言っていますが、なぜか経済は何事も無いように動いており、そのことについてずっと不思議に思っていました。
森木亮さんの「郵貯銀行破綻」の本に、「米国は破綻しており借金返済は不可能。しかし、キャッシュフローがある限り、経済は動く。」とあり、確かにそうだなと思いました。
使う分だけのお金が借金できれば、とりあえず経済をまわすことは出来ますものね。
借金返済が不可能になっていることとは別に、いつまで借金ができるのかそれが問題だったということですね。
私の知り合いに経済のことが詳しい人がおり、その人が言うには、世界同時に破綻すると言っています。かつて、アジア危機、ロシア破綻のようなことがありましたが、そのようなことが世界各地でしかも同時におき、しかも、破綻するスピードは一週間程度で金融当局者は何も出来ずに一気に破綻すると予想しています。
たった一週間で世界同時破綻するかどうかは私にはわかりませんが、今後も不況が深刻化する余地がまだまだあることは私にもわかります。又、生活防衛に関しては政府に期待することは不可能で、雑草のような逞しさで個人で何とかするというイメージでしょうかね。
以前は、庭に馬鈴薯を植えて飢えをしのぐ話は人事のように聞いていましたが、本当にそのような事態になることが目の前に迫っている気がします。
投稿: 未来志向 | 2009年9月19日 (土) 08時14分
南十字星さん、こんにちは。いつもありがとうございます。もうちょっと役所はおしまいですね。第二次大戦は軍人が日本を暴走させたわけですが、文官の役人も結局は協力しました。当然そのときにみんな責任を取らなければならなかったのですが、戦後GHQは軍人は壊しましたが文官の役人は占領統治に利用しました。それで整理されるはずのものが残ったわけです。そして今度はその残った文官の役人が大失敗して今日の国家破綻を招いたわけです。それで、これで文官の役人もおしまいということなのでしょう。公の仕事はここで全く違う遺伝子から作り直しになるのでしょうね。大きな変化だと思います。
未来志向さん、こんにちは。いつもありがとうございます。おっしゃるとおりだと思います。ここまで問題を隠して飛ばすと、表に出てくるのと破綻がほぼ同時になるのでしょうね、しかも世界同時に。何か突然の出来事になるのだと思います。そして世の中はそれを境にすっかり光景が変わるのでしょうね。
どうもありがとうございます。どうぞますますご活躍ください。
藤原直哉 拝
投稿: 藤原直哉 | 2009年9月19日 (土) 20時51分
中国で”小人”というのは、単に愚かな人という意味ではなく、相当悪辣な人というニュアンスのようです。
他人から”小人”と言われると、人格を否定された事と同じだそうです。
そういう意味でも、現代社会(世界中)のリーダーたちは、”小人”揃いですね。
論語を読むと、君子と小人の対比が多数出てきます。
昔から、政治家や役人は”小人”ばかりだったということですね。
つまり、政治家や役人や経済界の偉方やマスコミに人格を期待してはいけないと言うことです、いかにして、一般市民が、政治家やその他のリーダーを監視するか、が大事ですが、マスコミがこの有様ではどうにもならないですね。
投稿: ^m^ | 2009年9月20日 (日) 04時55分
^m^ さん、こんにちは。そうですね。小人ばかりが上に立って。これは世の中の天地が入れ替わる重要な兆候だと思いますね。これからおもしろくなりますよ。どうぞ引続きご活躍下さい。いつもありがとうございます。
藤原直哉 拝
投稿: 藤原直哉 | 2009年9月20日 (日) 21時31分
昔は、日本テレビは体制側、朝日テレビは反体制側で報道していましたが、何年も前から、日本の電波は米国に乗っ取られているようで、米国の利益になるような報道をしています。
特に、朝日テレビのサンデープロジェクトはひどいもので、昨日も田原総一郎はじめコメンテーター全員が米国の利益誘導になるような質問や意見を民主党の岡田外相にぶつけていました。
以前、竹中平蔵がサンデープロジェクトに出た時、竹中の意見は長目に、反竹下の意見は短めにしたり、反竹中の指摘が的を得ていて、竹中が追い込まれていると、田原はその人の発言の腰を折り、竹中に発言させたりしていました。
ここ数年、朝日テレビの報道は地に落ちていると感じるばかりです。
民主党は特殊法人と同様に米国のマスコミ支配を解体して日本のマスコミを改革できないかと思います。
投稿: 未来志向 | 2009年9月21日 (月) 08時30分
未来志向 さん、こんにちは。今回の政権交代で朝日の正体がバレバレですね。戦後、左翼の顔をしながら一番米国に協力してきた朝日の成れの果ての姿ですね。これからますます死の舞踏を踊り狂うのではないでしょうか。そもそも広告料の激減でテレビ局も新聞社も経営が危機的状態です。朝日も例外ではありません。このまま終るところがたくさんあるのではないかと思います。虚構は崩れ去っていきますね。どうぞ引続きご活躍下さい。ありがとうございます。
藤原直哉 拝
投稿: 藤原直哉 | 2009年9月22日 (火) 07時53分