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2009年5月 6日 (水)

藤原直哉の「21世紀はみんながリーダー」 2009年5月6日 ダウンサイジングでは生き残れない

ダウンサイジングでは生き残れない

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コメント

いつも楽しく、為になる情報をありがとうございます。
先日再就職出来た事をお知らせ致しましたが…入った先が小企業ながら典型的な「暗く冷たく、搾取第一。今が良ければあとは知らない」の「いつも誰かが泣いている(実際、泣き顔の社員を毎日見ました)会社でして、元気がなくなってしまうまでいてはまずいし、社会保険にも入れてもらえない(と言いますか、社員さん達が「入る前に考え直した方がいい」と、手続きをしないでいたのです。これもすごい話ですが)のが幸い、今ならまだ戻れると、10日足らずで退職、逃げ帰ってきました(笑)。このあたり、私の不徳の致す所で大いに反省すべきではありますが、今の経営者にどんなタイプな人が多いかを垣間見ただけでも、勉強にはなりました。
海に投げ出され、陸地かと思えば小さな浮島だった…という事で、今しばらく大海原を漂流しながら、それでも意外に本人明るく、この世にいる意味や未来のイメージを持ちながら、泳いで行こうかと思います。悪徳経営者のもとで最後のあがきに付き合いながら報酬をもらう事より、よほど私らしいと(自分では)思っておりますので…。
それでも、藤原先生のお話を聞いていると、「絶対にいい未来は開けるから大丈夫」という元気が湧いてきます。ここに来る以前では、考えられない事。これもきっと、「ご縁」だったのだと思っております。
失業生活で多少時間はありますので、バックナンバーを聞きながら、リーダーシップの勉強の時間を持とうと思っております。
どうぞこれからも、素敵な放送をよろしくお願い申し上げます。

投稿: TOMO | 2009年5月 6日 (水) 22時34分

TOMOさん、こんにちは。いつもありがとうございます。
そうですか。それは大変なことでした。しかし賢明な決断だったと思います。時代の転換点ではこういうことも仕方ないかもしれません。

とにかく朝起きて、今日も生きているということがありがたいと思えるのが乱世です。いかに少ないエネルギーでいかに幸せに生きるか、その知恵と実力を磨くときでもあります。

どうぞ引続きお元気にご活躍下さい。
ありがとうございます。

藤原直哉 拝

投稿: 藤原直哉 | 2009年5月 7日 (木) 08時04分

藤原先生、こんばんは。

以前、出口王仁三郎「霊界物語」のことでお尋ねしたことのありますkirakoと申します。 4月26日放送の「藤原直哉の精神世界」、とても感動深くお聞きしました。いつも本当にありがとうございます。
 私は日本の音大を出たのですが、在学中ずっと「こんなこと習って、いったい社会や 自分自身の何の役に立つんだろう」と疑問に思い続けました。何か違うんじゃないか、そう思い続けました。ただ、その後ずいぶん経って、音大外の場所で、「ヨーロッパに最も古くから伝わる」という発声法や演奏法を知り、少し気のすむ思いをしました。 「古くから」といいますのは、どれくらい古いのかと言いますより、それらの技術の指導法の出どころが摩訶不思議で、それらのひとつひとつは、すぐれた先人たちによって「直接に聞きとられた」というものでした。「こうやって教えなさい」と天なる声が語ったというのです。

 「直接」教えられた音楽は実にゆったりと、やわらかく繊細、優しく、包み込むような自然さがあります。そして茶の湯をするような清明さや広がりがあります。先生がお聞きになりますとすぐわかられると思います。調律も(ピアノの場合ですが)、本当の調律はピッチを狂わせるところに音色が生まれます。習得に長い年月を要する熟練の技です。    (日本にはこうした調律をされる調律師さんはごくわずかです)。管楽器や弦楽器は演奏者本人が音色を作る面が大きいですが、同じことがあてはまると思います。
 ところで・・・、
矛盾するようなことなのですが、私は先生のラジオをお聞きするようになり、そうした  芸術も含め、むしろ逆に芸術の限界について感じるようになりました。と言いますか芸術の限界について考えることができるようになりました。
この点が今日先生にお話したかったことです。「芸術は何か大きなものの一部、あるいは手がかり」であって、芸術だけでは何かの全体に触れることはできない。なので、何か大きな存在のことを想わずして芸術うんぬんというのは本来のあるべき姿とちがう・・・。
(この考えはまちがっていますでしょうか ?)
 
「霊界物語」は最近までよくわかりませんでした。連休中、いなかの山道をゆっくりのんびり散歩していて、はっとしました。余計なことを考えないとき、自然の世界に気持ちが開いているとき、素直なとき、心は不思議な世界をとらえるのかも、と思えました。この本は、自然の世界を素直に感じとることにつながりがありますでしょうか ?
私は一年半前、先生のラジオをお聞きして田舎暮らしを選んだ一人です。今このとき、田舎で暮らせて幸いと思います。社会の混乱を恐れて田舎暮らしを始めましたが、そこで拾ったものは思いがけないものでした。鳥のさえずりや虫の声は、音楽を超えていると感じます。
 ふだんピアノや声楽の教師をしておりますが、なんとか、いつかそうしたことまで教えられるように、なれるものならなりたいと思う最近です。
 いづれにしましても、私は先生のお話とワールドレポートをお聞きし拝見し、自分の 音楽成長の師のように思わせていただいております。

投稿: kirako | 2009年5月 8日 (金) 22時27分

藤原先生こんにちは

kirakoさんのコメントに共感しました。

"何か大きな存在のことを想わずして芸術うんぬんというのは本来のあるべき姿とちがう・・・。"

私は音楽ではなく、調理を仕事としております。 料理人も一芸術家と思っております。 kirakoさんの言葉で、小さな物の見方をしていた自分に気付きました。 有難うございました。 表現したい物に一心になる大切さを思い出させてくれました。

"霊界物語" 私も目を通しました。

思ひ内にあれば色必ず外に現はる

神が表に現はれて善と悪とを立て別ける

このような事が起きているのでしょうか?
すべての人が、すべての物事を見られるようになり、公平に判断できる社会は夢物語なのでしょうか?
社会の複雑なしがらみは、解かれるのでしょうか?

先生は知識が有り、難関も乗り越えるすべが有るのでしょうが、表現する手前、嫌な思いもされる事でしょう。
それでも明るく使命を全うする姿に涙が出ます。
差別を受ける黒人大統領、余程酷い物事を見てきたのでしょうか? "命張るから自分に任せてくれ" と言わんばかりのエネルギーが伝わってきます。

人は、炭酸水の様に弾けて消えて行くのが良いと思います。 感動して、思いを全うして、社会に貢献して、、 ロボットではなく動物なのですから。

長々と済みませんでした。
皆様の健闘を祈っております。

投稿: yy | 2009年5月 9日 (土) 00時13分

kirakoさん、yyさん、こんにちは。いつもありがとうございます。このたびはすばらしいコメントをお寄せくださいまして、真にありがとうございました。私自身、身が引き締まり、感動させていただきました。

雅楽も祭囃子も、基本的には神事、祭りの一環であり、神さまへ奉納する、奉納行事だと思います。神道式で言えば、まず初めにお払いがあって、祝詞があって、玉ぐし奉てんがあって、一連の祈りの儀式が終った後、神楽殿で奏せられるのが音楽であり、舞だと思います(しかしあの古代の音楽である雅楽は、その前にどんな神事あるいは仏事をやっているのかは知りませんが・・・)。ですから音楽も舞も神と人が和合する楽しみ、真に釣り合う(=まつりあう、祭りあう)を表しているはずで、神なき音楽や舞というものは本来はないのだろうというのが私の感ずるところです。

したがって頭と技術で作りこんだ音楽や舞は画竜点睛を欠くようなところがあって、最後に音楽が音楽となるのはある種の神がかりと言いますか、神のプロデュースのもとに完全に無心となって奏し、舞うときではないかと思うのです。

そう考えるとやはり神と切り離した芸術というのは限界があって、芸術は神事であると常に自覚して神を感じながら無心の境地になることが大切なのだろうと、勝手に思っているのです(笑)。

茶の湯も、この世の5元素といわれる、木火土金水が全部揃っていまして、木に相当する炭、火、土に相当する灰、金に相当するお釜、そして水です。遠山郷の霜月祭りの湯立て神楽(平安時代前期、清和天皇の時代の宮中の湯立て神楽を再現したとも言われています)も同じでして、土で作ったかまどに薪を入れて火を燃やし、鉄のカマに水を入れて沸かすのです。こちらは下から上に順番に木、火、土、金、水と並んでいます。ですからこの世の5元素を集めて、それを神あるいは仏に捧げて神や仏のみいずを人と神仏が一体になって寿(ことほ)ぐということなのだろうと勝手に思っております。

お料理もそうですね。神道では海河山野で採れたものを神さまに捧げます。そのとき、必ず正面を神ではなくて人に向けて捧げます。すなわち、こうした収穫物は神が人に与えたものですよということを表しているのですね。そして神事の後、それをお下がりとして人のお食事の材料としていただきます。さらにお祭りの後には直会(なおらい)があって、神と人が共に同じ食事を楽しみます。ですからお料理もお食事もそれは神事なのですね。

そして同じような構造は当然全世界にあるはずで、東洋にも西洋にもその土地土地の神や仏と人々が和合する祭りがあるはずで、そこには当然神事としての音楽や舞あるいはお料理やお食事があるはずです。21世紀は近代の聖俗分離の呪縛から離れて、もういちど我々の生活も経済も政治も世の中全体が芸術を含めて、神と真に釣りあう=まつりあう、というところから見直されるべきなのでしょうね。そういう意味でも人工的な都会生活よりも田舎暮らしのほうがはるかにレベルの高い生活になるということなのだろうと思います。

霊界物語はおもしろいですね。第75巻天祥地瑞、寅の巻、第三篇真鶴の声、第10章祈り言に神政成就を祝う祝詞が出ています。その後半のところにこういう一節があります。「スの神の大御心のまにまに畏み慎み、世の為神人の為と励しみ勉め奉り、事に臨みては火に水に入る事をも厭はず、誠の大神言とし知らば、道のまにまに白刃の林にいるも、亦烈しく射向ふ矢玉の中も更に厭わず、神進みに進みて、禍を攘ひ国を清むる、其麻柱の鋭き事、雷よりも烈しく、其程利の当れる事、太陽の往きます道よりも明白なり」。これが本来の人の生き方なのですね。

私は神を信じるというよりも、神を感じるほうでして、決して何か特別な困窮があって神にすがりついたという記憶はないのです。この一説についてもこういう生き方をしようと自分自身に固く誓ったというのではなくて、こういう生き方がいいよと霊界物語に書いてあるので、そのとおりにやっていると実にこれは気持ちのいいことだ、なるほどおっしゃるとおり。これは本当に神はいらっしゃるぞと感じるのです。やはり信じると固く誓っても、それは頭でのことですからどうしても無理があり、心の底から湧いてくる不安は消し去ることができません。これではなかなか明るく温かい世界にはいきません。むしろもっと頭の理性を引っ込めて、いろいろ考えずに、ええい、なるようになれ、地獄の底に行ったら何か宝探しでもやってお宝鑑定団にでも持って行ってやろうぐらいの気持ちでいると、これが不思議に神を感じるのです。

これからは良い時代になりますよ。王仁三郎聖師は同じことは2度繰り返す、しかし2度目は軽くなると言っておられます。戦後の混乱と同じだけれどもその軽くなったことが今起きていますし、バブル崩壊についてもそうですね。これで2度目ですね。1度目でよく苦労してよく悟っておけば2度目は先がよく見えてよく動けます。

どうぞ引続きますますご活躍されてください。ありがとうございました。

藤原直哉 拝

投稿: 藤原直哉 | 2009年5月 9日 (土) 13時03分

藤原さん、こんばんは。

少し前に「隠れた人材価値」を読みました。
読み始めてすぐ、辞書的な使い方をしようと決めてポストイットを貼りました。
合計で30ヶ所ほどでしょうか。
ここのところずっと会社組織と個人のモチベーションについて考えていまして、
パラパラとめくっては読んでいます。


今まで読み返す本はありましたが、こうした気持ちになったのは初めてです。
内容ももちろんですが、ポストイットをぺたぺた貼っている自分自身も、とても面白く思います。
また、アメリカで2000年に出版された本であるということもなかなか興味深いですね。


メールでもご連絡しましたが「本物のリーダーシップ」研修に社長を誘って参加いたします。
お会いしたくなったという理由の方が強いかもしれません。(笑)
久しぶりにお会いできること、楽しみにしております。

投稿: 64ka | 2009年5月10日 (日) 00時03分

藤原先生、

 お忙しい中たくさんのお話をいただき大変ありがとうございます。茶の湯に関しまして、五大元素のこと、何も知りませんでした。茶の湯が行われている時の空間と、古い技法で演奏されるときのピアノ演奏に、或る時期から共通点を感じるようになり、これは何なのかなと思うようになりました。茶をたてる、とはどういうことなのかとても興味があります。霜月祭りもぜひ参加させて頂きたく思います。

>芸術は神事である。
いつの日か、まっすぐにその事を知るようになりたいです。と言いますか、それわからずして何が音楽教師か、笑っちゃうよ、と自分のことを思います。(笑) 頭も心も魂も? 大きく転換したい思いです。

このような欄にあれこれお尋ねしますより、先生を直接おたずねすればよいこと百も  承知なのですが、今現在、親の看病で家を離れることができません。親が落ち着きましたら遠山藤原学校に参加させて頂きたく思います。
 ありがとうございました。


yyさん、

私の話に共感してくださり、うれしく、そして励まされます。私の教わりました音楽の  技術は大昔、「医療」の一部として社会に存在していたらしいのですが、「食事」に関しまして、感性が充分に働いて料理を作れた時、そしてそれを食べた時、心身ともに癒され 元気がわくことを不思議だと感じてきました。よくよく考えますと芸術と食事は同じなのですね。学ばせて頂きました。
これからも書き込みを楽しみに拝見させて頂きます。どうぞよろしくお願いします。

投稿: kirako | 2009年5月10日 (日) 09時51分

64Kaさん、こんにちは。いつもありがとうございます。その本はとても参考になる良書だと思います。国や業界が変わっても成功の法則に大きな違いはないのだと思います。米国は本当に皮肉にその正反対の道をこの5年ほど歩んで自滅したようですね。そうですか、本物のリーダーシップ研修でお目にかかれますか。それは大変楽しみにしております。ますますのご活躍をお祈りしております。

Kirakoさん、こんにちは。いえいえ、こちらこそいろいろとお教え下さい。王仁三郎聖師は芸術と宗教について次のように言っておられます。http://www.oomoto.or.jp/Japanese/jpDokt/artoj/oniart.html
とにかく神人一体となった時はとても気分が良いものです。もちろん邪神ならひどく不愉快なのでしょうが、正しい神と一体になったときの爽快感は格別ではないかと思います。ですから生活にしろ仕事にしろ、もちろん芸術にしろ常に正しき神と共に歩むことが人生を楽しく送る秘訣なのだと思いますし、逆に言えば邪神が付け入るスキのないような正しい生活をすることが大切なのでしょう。そのためには先の祝詞にあるような、大胆果断な生き方も必要なのだと思います。動くべきときに動かず、思うべきときに思わないところから何かが狂いだして邪神が入ってきますからね。

お茶についてはもちろん私も素人なのですが、王仁三郎聖師は天国での遊びであると言っておられます。なるほど、本当に主客、お茶、お道具、自然すべてが一体になったときの幸福感は例え一瞬かもしれませんがすばらしいものがありますね。確かにみんなで天国に遊んでいるという表現がぴったりだと思います。是非私も古い技法のピアノの演奏を拝聴いたしたくなりました。

いろいろとお忙しいようで、どうぞ今を大切にお元気にお過ごし下さい。そしてどうぞお気軽に遊びにいらしてください。

ありがとうございます。

藤原直哉 拝

投稿: 藤原直哉 | 2009年5月10日 (日) 11時14分

>出口王仁三郎の芸術観
http://www.oomoto.or.jp/Japanese/jpDokt/artoj/oniart.html

『わたしはかつて、芸術は宗教の母なりと謂ったことがある。しかしその芸術というのは、今日の社会に行わるるごときものをいったのではない。造化の偉大なる力によって造られたる、天地間の森羅万象を含む神の大芸術をいうのである。』

藤原先生、貴重な日曜日、たびたびお忙しいお時間をさいてくださり本当に有難うございました。ご案内くださいましたHPにありました王仁三郎の言葉、とても感動しました。感動と言いますか打たれる思いがいたしました。「芸術」と呼んでいるものが自分と  王仁三郎とは全然ちがう。そのことがふいに心に落ちてきました。

先生がお書きくださいました『むしろもっと頭の理性を引っ込めて、いろいろ考えずに、ええい、なるようになれ、地獄の底に行ったら何か宝探しでもやってお宝鑑定団にでも持って行ってやろうぐらいの気持ちで』や『とにかく神人一体となった時はとても気分が良いものです』というお言葉も、もしや私の文を読まれ、そこの点をおっしゃられたのではありませんでしょうか。

>動くべきときに動かず、思うべきときに思わない

藤原先生のご著書やラジオ、レポートなど初めて拝見しましたとき、自分はなんと現実世界への緊張感や注意深さや本当の関心を失っていたかと思いました。そして何故 著者の方は生きる世界をこのように思われるのだろう、見れるのだろう、不思議で、そしてうらやましく思いました。以前のラジオでおっしゃられていました「腹で感じとる」。「心」や「頭」でない感じとり方がある、、、私の思いすごしでなければ、針の先ほどの小ささですが、発見したような気がしております。勘違いかもしれませんが・・・。

今日は不思議な日曜日となりました。お目にかかったこともありません者に貴重なメーセージをくださり、本当にありがとうございます。
 

投稿: kirako | 2009年5月10日 (日) 16時40分

kirakoさま、こんにちは。いつもありがとうございます。いえいえ、特にそのように思って書いたわけではありません。これは誰でもそういう状態になるわけですから、一般的な処世のあり方として書いたものです。

王仁三郎聖師の芸術観は本当にすごいですね。そして今の芸術なら宗教が芸術の母だと、あのHPの一番最後のところに指摘が出ています。もう一度我々は芸術を含めて生活も仕事も、自然との共生、神人一体に向けて反省しなければなりませんね。

どうぞこれからもますますお元気に、ご活躍されてください。

ありがとうございます。

藤原直哉 拝

投稿: 藤原直哉 | 2009年5月10日 (日) 17時54分

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